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アーティスト特集
Desmond Dekker
デズモンド・デッカー
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60年代から70年代初期にかけてジャマイカの音楽を世界に伝えたシンガー・ソングライター。

2008/10/3掲載 2017/7/19更新
(C)ダブストアサウンドインク 無断転載を禁ず
Desmond Dekker 1941年7月16日~2006年5月25日
本名: Desmond Dacres
出身: ジャマイカ キングストン


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12345 ロックステディ

Desmond Dekker, Aces

007 Shanty Town

Beverleys UK 1966

Shanty Town/007

¥2,380
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1967年から1975年の間に、デスモンド・デッカー(Desmond Dekker)は多くのヒット曲を放ちジャマイカ音楽に人気をもたらした。それによって、彼はレゲエ史で重要なアーティストの1人として考えられている。彼の功績とクロス・オーバーにおける成功…しかしながらレゲエというジャンルを作り上げることに貢献した彼はこの音楽ジャンルにおいて本当の偉人であると評価されていないかもしれない。

1941年7月16日、ジャマイカのキングストンにデスモンド・デクレア(Desmond Dacres)として生まれたデスモンド・デッカーは幼少期に孤児となり、キングストン西部のシーフォースへと移り住んだ。後に市街地へと戻り、溶接工として働いていたが同じ工場で働いていた仕事仲間が、アイスクリーム店とレコード店、ビヴァリーズ(Beverleys)を経営していたオーナー兼レコード・プロデューサーのレスリー・コング(Leslie Kong)にオーディションの機会を与えてもらうためにデスモンド・デッカーを後押ししたのだった。彼はオレンジストリートのショップ裏へどうにかして入り、レスリー・コング、さらに当時の偉大なレコーディング・アーティスト、デリック・モーガン(Derrick Morgan)とジミー・クリフ(Jimmy Cliff)と最終的にチャンスを得るまでスタジオに通い続けていた。三人はデスモンド・デッカーが披露した歌の1つを気に入りこの若き男にチャンスを与えることに…そうして彼は翌週‘Honour Your Mother And Father’を録音したのだった。この楽曲は1963年ジャマイカ国内ではビバリーズから、イギリスではアイランド(Island)といったレーベルからデスモンド・デッカーの名義でリリースされたのだった。

この作品は大ヒットを記録するもデスモンドは溶接工として働き続けた。時間を工面して作り、クライブ・キャンベル(Clive Campbell)、イーストン・バーリントン・ハワード(Easton Barrington Howard)、ウィルソン・ジェームス(Wilson James)、パトリック・ジョンソン(Patrick Johnson) 人のシンガーから構成されたフォー・エーシズ(Four Aces)として知られた彼らとチームを組み、ビバリーズでデスモンド・デッカー&ザ・チェリー・パイズ(Cherry Pies)の名義で‘King Of Ska’を一緒に録音した。しかし、その後すぐパトリック・ジョンソンとクライブ・キャンベルはこのグループを離れた。

デスモンド、イーストン、ウィルソンの三人トリオはそうしてデスモンド・デッカー&ザ・エーシズ(Desmond Dekker & The Aces)として活動を開始。彼らはキャリアを通してレスリー・コングのビヴァリーズで送り、驚くべきヒット曲を量産していった。数あるリン・テイト(Lynn Taitt)による至高のロックステディ楽曲の中でもこの上ないギター・パターンによって構築された‘007’はゲットーのルード・ボーイと政府の間に起きる紛争を物語ったものだった。映画にでも登場しそうなこのテーマはロンドンのモッズに受け入れられ、クラブや無許可ラジオでのヘビープレイを獲得し、1967年7月イギリスのTOP20チャートで14位を記録した。ジャマイカでプロデュースされた音源がこれほどの成功を成遂げたのは最初のことだった。

‘007 Shanty Town’がイギリスでヒットすると、デスモンド・デッカー・アンド・ザ・エーシズはジャマイカ国内でさらにヒットを輩出、1966年には最優秀グループ賞に輝き、バイロン・リー・アンド・ザ・ドラゴネアーズ(Byron Lee and The Dragonaires)とキングストンの国立競技場で一緒の演奏したときにはソニー・ブラッドショー杯を獲得した。ジャマイカ・フェスティバル・ソング・コンペティションでは楽曲‘Unity’で挑むも‘Ba Ba Boom’で優勝したジャマイカンズ(Jamaicans)に負け惜しくも2位に終わるが、翌年‘Intensified Festival 68’で優勝。同年にはウェスタン・キングストンで苦しんでいる人々を旧約聖書でイスラエル人が味わう苦難や苦労に例えて歌った‘(Poor Mi) Israelites’が支持を集めた。1969年4月、この曲の斬新な速いレゲエ・リズムがこのレコードをイギリスのチャート1位へと押し上げ、アメリカのチャートの数々にもランクイン。これはジャマイカ音楽にとって大きく重要な躍進となった。楽曲‘It Mek’もイギリスのジャマイカ人コミュニティーでヒットを記録していたが、1969年7月にはイギリスのTO20で7位を記録、3回目のチャート入りを果たした。この成功でデスモンド・デッカーはザ・エーシズなしのソロ・スターとして、ロンドンに拠点を移し活動を開始するも彼にとって重要なジャマイカとのコネクションは依然絶えることがなかった。

1970年1月に発表された‘Pickney Gal’はマイナー・ヒットを記録、、同年ジミー・クリフが歌ったデスモンド・デッカー・ヴァーション‘You Can Get It If You Really Want’はイギリスのTOP20で2位を獲得した。ビバリーズがジャマイカ直産の新鮮なリズムを提供しデスモンドが歌詞を手掛ける、これがヒット曲を生み出すフォーミュラだった。ライブ活動によるイギリスでのプロモーションが続く中、1971年8月レスリー・コングが心臓発作で急死するという災難が襲った。デスモンドのキャリアを通して助言者であり続けたレスリー・コング、彼は成功の道へと導く助けだった;彼らの関係はアーティストとプロデューサーというよりも父と子だったと言い表せられてきた。

デスモンド・デッカーは録音を続けるも、過去の栄光とは程遠いものだった。1975年には‘Pickney Gal’はチャート16位を記録。‘(Poor Mi) Israelites’の再発、これらを除いてデスモンドがチャートを騒がすことはなかった。しかし2006年5月25日、彼が心臓発作で急死するまではイギリス、ヨーロッパのクラブやコンサートでライブ・パフォーマンスを行ない多くの人を魅了し続けた。彼のパフォーマンスを見たことのある人なら、彼の声、カリスマ性、トレードマークである笑顔と目、そして力みなぎるその才能は最後まで消えることはなかった。

スカ、ロックステディ、レゲエのヒット曲からなる彼のカタログは驚くほど一貫していて、いかなる形の商業的妥協から解放されていることに気付く。‘Fu Man Chu’、‘Beautiful & Dangerous’、‘Coconut Water’、‘Sabotage’などはジャマイカの音楽史において最も魅力的な楽曲の一例であると自慢してもよいだろう。しかしながら彼はジャマイカ出身最高のシンガー・ソングライターの1人に挙げられるのではなく、その“斬新さ”で知られている。楽曲‘King Of Ska’は多く人に道を示すことになったが、デスモンド・デッカーがこういった楽曲を制作するまではクロス・オーバーした作品に耳を傾けるリスナーは存在しなかった。こういったデスモンド・デッカーに対する認知と関心度不足には落胆するが、才能を持った誠実な男にとって、ジャマイカの音楽史で否定的に評価されることは心の痛むものだっただろう。しかし今、デスモンド・デッカーの出番がやってきたことに間違いはない。


Text by Harry Hawks

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12345 ロックステディ

Desmond Dekker

Israelites

c/w) Version

Beverleys UK 1968

Israelites - Desmond Dekker

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関連ジャンル
スカ / ロックステディ (26)
レゲエ (3)
未設定 (1)
歌詞紹介
Israelites
Unity

60年代から70年代初期にかけてジャマイカの音楽を世界に伝えたシンガー・ソングライター。Desmond Dekker(デズモンド・デッカー)のアーティスト特集。
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