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アーティスト特集
Joe Higgs
ジョー・ヒッグス
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ジョー・ヒッグスは自身のキャリアを続けるかたわら数世代ものミュージシャン、ジャマイカを誇る大のスターたちに自身の音楽だけではなく、師そして助言者として働きかけたことで大きな影響と与えた。

2011/4/28掲載 2018/10/10更新
(C)ダブストアサウンドインク 無断転載を禁ず
Joe Higgs 1960年6月3日~1999年12月18日
本名: Joseph Benjamin Higgs
出身: ジャマイカ キングストン トレンチタウン


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123 リバイバル・レゲエ

Joe Higgs

Family (ジャケットダメージ)

Blue Mountain UK (Org) 1988

Info: Original Press

¥2,980 ¥1,180
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ジョセフ・ベンジャミン・ヒッグス(Joseph Benjamin Higgs)は1940年6月3日にジャマイカのキングストンに生まれ、トレンチ・タウンのゲットーで“歌劇王カルーソ”で知られたマリオ・ランツァ(Mario Lanza)など広域にわたる音楽を聞きながら育った。50年代後期、リズム&ブルースに熱狂していた人々はジャマイカの青年、ジョーがロイ・ウィルソン(Roy Wilson)とボーカル・デュオ、ヒッグス・アンド・ウィルソン(Higgs & Wilson)を結成したことに心をつかまれるも、彼は最初から音楽の道が簡単でないことを分かっていた。

「音楽は苦悩さ。トレンチ・タウン出身だと知られていることはよくない…」ジョー・ヒッグス

1960年、デュオの最初の録音‘Manny Oh’がエドワード・シアガ(Edward Seaga)のワール(WIRL - West Indies Records Limited)レーベルからリリースされると、ジャマイカにとって初めともいえるローカル・ヒットとなり、‘Pretty Baby’や‘Come on Home’、‘Change Of Mind’などが続いた。エドワード・シアガが政界に入ったことを機に、ヒッグス&ウィルソンはクレメント‘コクソン’ドッド(CS Dodd)のスタジオ・ワン(Studio One)に移り、‘Mighty Man(Supreme)’や傑作‘There’s A Reward(Wincox)’といったヒットが続いた。‘There’s A Reward’はこれまでに作られたレコードで最高であると言っても過言ではないだろう。2人はドッド氏のためだけに録音していたわけではなく、プリンス・バスター(Prince Buster)、デューク・リード(Duke Reid)、キング・エドワーズ(King Edwards)、リンドン・ポッティンジャー(Lyndon Pottinger)、レスリー・コング(Leslie Kong)との制作活動で人気はさらに加速していった。ロイ・ウィルソンがアメリカに移住するとジョー・ヒッグスはソロ・アーティストとしてスタジオ・ワンで‘I Am The Song (I'm The Song My Enemy Sings)などと傑作楽曲を録音発表していった。

ゲットー出身のスーパースター、そんな言葉が彼の代名詞になる前からジョー・ヒッグスはしきたりを無視し続けていた。彼はトレンチ・タウンのヤードに生き、そこで貧困から沸いて出てくる若者たちに講義を行い精力的に彼らの活動を後押ししたのだった。ジョーのレッスンは歌やハーモニーのテクニックだけではなく、無法地帯である音楽産業についての教育であった。

「ボブ・マーリー(Bob Marley)はウェイラーズ(Wailers)だった。彼はリード・リンガーじゃなかった。彼にどうやって歌うかを教えたのは俺だ」ジョー・ヒッグス

彼の‘生徒’には、ウェイリング・ウェイラーズ(Wailing Wailers)と名乗っていたボブ・マーリー、ピーター・トッシュ(Peter Tosh)、バニー・ウェイラー(Bunny Wailer)、そしていつになってもジョーを「マエストロ」と呼ぶウェイリング・ソウルズ(Wailing Souls)のウィンストン‘パイプ’マシューズ(Winston ‘Pipe’ Matthews)がいた。スカの人気が衰退し始めるとジョーは録音を控えるも、カール・マルコム&ヒズ・アフロ・ジャマイカン・リズムス(Carlos Malcom and His Afro Jamican Rhythms)、リン・テイト&ザ・ジェッツ(Lynn Taitt & The Jets)、コクソンのもとで活動するソウル・ブラザーズ(Soul Brothers)とのライブ活動を継続した。最も人気のある彼の作曲した歌の一つに挙げられるのがピーター・トッシュをリードにウェイリング・ウェイラーズが彼らの自主レーベル、ウェイルン・ソウルム(Wail N Soul M)のために録音した‘Stepping Razor’だろう。

レゲエが人気を集めるようになるとジョーはハリーJ(Harry J)で‘Wave Of War’、‘Lay A Foundation’、‘World Upside Down’などといった楽曲を録音、彼は印象的な楽曲構成の中に正しいメッセージを伝えるという狭き道から外れることがめったになかった。また、ジョーは自身のレーベル、エレベーション(Elevation)から傑作‘Let Us Do Something’やカール・マスターズ(Karl Masters)をフィーチャーした‘Journey To Freedom’などの美しい録音を残した。さらに‘Invitation To Jamaica’はジャマイカ観光協会がスポンサーを務める大会で優勝を飾った。

1973年、ジョーはバニー・ウェイラーの代理としてウェイラーズのアメリカ・ツアーに参加。彼は1974年、ウェイリング・ソウルズから構成されるアタッラ(Atarra*アムハラ語で浄化を意味する)のメンバーとして傑作‘Brimstone & Fire’をリリース、これは彼がマイクロン(Micron)のために作曲・制作したものだった。翌年には、同じくロニー・バーク(Ronnie Burk)とピート・ウェストン(Pete Weston)のマイクロンはジョーのデビュー・アルバム「Life Of Contradiction」を発表した。

このアルバムのために本人によって制作・アレンジされた楽曲はもともと1972年アイランド(Island)のクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)のために録音されたものだった。アルバムのセッションに参加したバンドは法外にも過小評価されたナウ・ジュネレーション(Now Generation)で、アール‘ワイヤ’リンド(Earl ‘Wire’ Lindo)、マイキー・チャン(Mikey Chung)、ヴァル・ダグラス(Val Douglas)、さらにジョーがギター・アレンジャーを要求した際、当時ジャマイカに拠点を移していたジャズの巨匠エリック・ゲイル(Eric Gale)らが起用された。しかし、制作から3年、マスターテープはアイランドの棚に眠り、埃を被ったままだった。

「俺は保留中だったんだ。彼らは俺のために計画がなかったのさ」ジョー・ヒッグス

「私は市場がジャマイカのフォーク・シンガー(*もちろんレゲエ)を聞く準備が出来ていないと思う。だが彼は素晴らしい。私はとても彼が好きだがね」クリス・ブラックウェル

しかし、市場はこの唯一無二の楽曲集が当時ジャマイカから生まれていた音楽とははまったく違う方向から生まれたもので、作品をより理解していた。レコード収集家たちの間では当然人気を博した。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの国際的な大成功に続き、ジャマイカ音楽への興味は全盛期を向かえ、グラウネーション(Grounation)は「Life Of Contradiction」を1976年ロンドンでリリース。それはまさに彼の名前をこの作品で売るのに適材適所だった。音楽産業での活動から15年、ジョー・ヒッグスの才能はやっとキングストンのゲットーの外で認知され、彼の名前はレゲエの新たなリスナーによってボブ・マーリーバーニング・スピアー(Burning Spear)と同じ高い地位を得たのだった。

「ジョー・ヒッグスは天才だ。ボブ・マーリー、ジミー・クリフ(Jimmy Cliff)、エリック・ゲイルに訊いてみるんだ…」アルバム「Life Of Contradiction」より

このアルバムは現在、名盤として賞賛されているが、リリース当時、何人かの著名評論家は時代遅れな楽曲集として評価したこともあった。皮肉にも当時の音楽の多くは現在現在聞くと時代遅れに聞こえるがジョーの傑作はその日に録音されたかのように新鮮で生き生きとしている…そうして制作3年のときが経ち、このアルバムはリリースされた。

ジョー・ヒッグスは再びアメリカをツアー、彼を‘レゲエの父’と呼んだジミー・クリフのバンドリーダーとして参加した。

「…彼はルーツを失くしたとどこでも言われていた…だからその方法を得るために戻ってきて、トレンチ・タウンの俺を訪ねてきたんだ」ジョー・ヒッグス

ジミー・クリフは主演した映画「Harder They Come」で国際的な成功を手に入れ、彼の歌声を聞こうとニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに大観衆を惹きつけるほどになっていた。ジョーはこのショーのオープニングを自身の楽曲で務めた。また、彼はジミーのレーベル、サンパワー(Sunpower)では‘Sound Of The City’と‘Sons Of Garvey’でデュエット録音している。

彼のセカンドアルバム「Unity Is Power」もロニー・バーク(Ronnie Burke)との自主制作で1979年にワン・ストップ(1 Stop)とアイランドからリリース。80年代も1983年にバニー・ウェイラーが彼のレーベル、ソロモニック(Solomonic)で歌った‘Talk To That Man’を提供するなどその作曲能力を見せ続けた。同年にはアール‘チナ’スミス(Earl Chinna Smith)のハイ・タイムズ(High Times)からシングル‘So It Go’をリリース、ジャマイカの政治制度を「大事な友人がいなきゃそうなるだろ」と大々的に酷評した結果、ラジオでは放送が禁止された。その後、ジョーはカルフォルニアのロサンジェルスに移住、85年にはアリゲーター(Alligator)から「Triumph」、88年にはシャナチー(Shanachie)から「Family」のアルバム2枚を発表。そして1995年、娘のマーシャ・ヒッグス(Marcia Higgs)との「Joe and Marcia Together」が最後のリリースになった。

ジョー・ヒッグスは1999年12月18日、ロサンジェルスのカイザー病院で死去、死因はガンだった。ジャマイカの偉大なシンガー・ソングライターだった彼の作品はジャマイカ音楽発展にとってとても重要だったといえる。ジョー・ヒッグスはその懸命な活動から生みだしたレゲエというジャンルにおける真の重要人物としていつまでも心に生き続けるだろう。



Text by Harry Hawks

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1234 スカ

Joe Higgs, Wilson

Love Not For Me

c/w) Roland Alphonso - Shuffle Duck

King Edwards UK 1964

¥1,280
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1234 スカ

Skatalites

Lunch Time

c/w) Joe Higgs, Wilson - Gone Is Yesterday

King Edwards UK 1965/1970

¥1,380
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1234 レゲエ 1974-1980

Joe Higgs, Wailing Souls, Attaras

Brimstone & Fire

c/w) Cool Fire Version

Pressure Sounds UK 1975

¥1,680
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関連アーティスト
Roy Wilson(ロイ・ウィルソン)
Wailing Souls(ウェイリング・ソウルズ)
Bunny Wailer(バニー・ウェイラー)
Peter Tosh(ピーター・トッシュ)
Bob Marley(ボブ・マーリー)
関連ジャンル
スカ / ロックステディ (5)
ルーツ・レゲエ (2)
レゲエ (2)
ダンスホール 2000年代 (1)
歌詞紹介
There Is A Reward

ジョー・ヒッグスは自身のキャリアを続けるかたわら数世代ものミュージシャン、ジャマイカを誇る大のスターたちに自身の音楽だけではなく、師そして助言者として働きかけたことで大きな影響と与えた。Joe Higgs(ジョー・ヒッグス)のアーティスト特集。
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