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アーティスト特集
Ninjaman
ニンジャマン
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「オリジナル・フロント・トゥース・ゴールド・トゥース・ガン・ポン・トゥース・ドン・ガーゴン(Original Front Tooth Gold Tooth Gun Pon Tooth Don Gorgon / 歯には歯を、前歯が金歯のオリジナル・ドン・ガーゴン)」…最もショッキングで独創的、かつ反抗的なダンスホール・ディージェイの1人。

2014/2/14掲載 2017/8/2更新
(C)ダブストアサウンドインク 無断転載を禁ず
Ninjaman 1966年1月20日~
本名: Desmond John Ballentine
出身: ジャマイカ セント・マリー教区 アノット・ベイ


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1966年1月20日、デズモンド・ジョン・バレンタイン(Desmond John Ballentine, Ballintine or Ballatine)はジャマイカの北海岸に位置するアノット・ベイで生まれた。若きデズモンドは12歳にしてキングストンに移住、ブラック・カルチャー(Black Culture)サウンドシステムのディージェイとしてそのキャリアをスタートさせた。そのマイクの腕前が評判となると、彼はダブル・アグリー(Double Ugly)と名乗るようになり、その後アグリーマン(Uglyman)と改名、1984年にはキラマンジャロ(Killamanjaro)に移籍し、スーパー・キャット(Super Cat)やアーリーB(Early B)を師と仰いだ。その後、献身的で、よく訓練された刺客である日本の忍者に憧れ、彼はニンジャマン(Ninjaman)と改名する。侍が名誉の為に厳しい掟を守るのとは対照的に、忍者は機密を守る暗躍者であった。ジャマイカのニンジャマンはステージの上とレコーディングで相手を一瞬で打ち負かすことで、その名を、身をもって体現した。

ヴォーカリスト、コートニー・メロディ(Courtney Melody)とのコンビネーションで制作されたニンジャマンのデビュー・シングル、‘Protection’は1987年、ハリーJ(Harry J)のサブ・レーベル、キラマンジャロからセルフ・プロデュースでリリースされた。直後にハリーJプロデュースの下、同じくコートニー・メロディとのコンビネーションである‘Send Me the Pillow’と続いた。これらのリリースはティンガ・スチュワート(Tinga Stewart)との共作で、翌年にレーベル、ピックアウト(Pickout)からリリースされた彼の最初の大ヒット‘Cover Me’の前身となった。成功を記録したソロのヴァージョンで、彼は(乗るのとは反対に)リディムへの徹底的な抵抗心を披露し、1989年から1992年にかけてダンスホールという新しい波の頂点で活躍した。

ホットなディージェイ以上に注目される存在はいない時代、彼はスティーリィー&クリーヴィ(Steely & Clevie)の為に‘Hortical Don’を、ファティス・バレル(Phillip ‘Fatis’ Burrellーベル、エクスターミネーター(Xterminator)の為には‘Get Out a Here’、さらに‘My Weapon’と‘Excuse Me’をミスター・ドゥー(Mr.Doo)の為にと、キングストンで1番ホットと慕われた数々のプロデューサーの下で無数のレコードを残した。同時にボビー・ディクソン(Bobby Dixon)のレーベル、デジタルB(Digital B)ではクラシックと呼び名の高い‘Permit to Bury’、‘Things a Gwan’、‘Number One’そして限りなく完璧に近い‘Fulfilment’等の作品で成功を収めた。しかしながら「1990年から1992年にかけて、ニンジャマンの名が登場する全てのレコードはチェックに値する」と言わしめ、1991年にボビー・デジタルがプロデュースした「Bounty Hunter」アルバムには、ジャマイカでヒットしたシングルが最低でも6曲は収録されていた。

当時ニンジャマンとカッティ・ランクス(Cutty Ranks)だけが、時代の寵児として君臨していたシャバ・ランクス(Shabba Ranks)に太刀打ちできる存在とされ、レコード上や路上においてレゲエのトップ・アーティストたちが言い合いになるようなことは日常茶飯事だった中、ニンジャマンはその残酷な伝統をさらに色濃いものとした。フローガン(Flourgon)や前出のシャバ・ランクスに代表されるダンスホール・ディージェイたちが、彼特有の表現方法であるその傑出した毒舌に対抗した。シャバとニンジャマンは、ジャマイカで毎年恒例の‘Sting’や‘Sunsplash’などで記憶に残る素晴らしいクラッシュを行い、ニンジャマンが放った“Ting A Ling A Ling School Pickney Sing Ting(ティンガリンガリン、小学校で子供たちが歌う歌)”というフレーズはシャバの大ヒット‘Ting A Ling’への、のびのびとした回答だった。ニンジャマンはダンスホール・ディージェイの最先端で活躍しただけにとどまらず、‘Donnett’を始めとするスティーリィー&クリーヴィが組み立てたジャマイカ初の“ジャングル”スタイルのチューンに歌をのせた最初のアーティストなど(結果としてそのスタイルはキングストンでは受け入れられなかったのだが)、数々のフィールドでたくさんの功績を残した。さらにアメリカのレーベル、アクト3(Act 3)からリリースされたLP、「De Man Good」は大胆にも彼の写真を両面に納めたピクチャー・ディスクとして売り出された…過去には自らを“2倍ブサイク(Double Ugly)”と名乗った男であったにも関わらず!

1997年、ニンジャマンは生まれ育ったキリスト教に回帰。私生活をはじめ、マイクを握っている時にも自身の信条を“ブラザー・デズモンド(Brother Desmond)”とし、リッチー・スティーヴンス(Richie Stephens)のレーベル、ポット・オヴ・ゴールド(Pot of Gold)から、まるで自らを模索するかのような作品「Born Again」をリリースした。1999年、彼はクリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)の映画「Third World Cop」で不法滞在者を演じ、ポール・キャンベル(Paul Campbell)等と共演を果たした。決してあからさまな結果には落ち着かない存在として、誰しもこの真のオリジネーターのキャラクターを真似することはできない。そして時には話しのうまい、しかし常に議論を醸し出すそのスタイルと姿勢で、彼はジャマイカで最も一般聴衆に人気のあるアーティストの1人としてその名を刻み続ける。


Text by Harry Hawks


       

関連アーティスト
Super Cat(スーパー・キャット)
Early B(アーリー・ビー)
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ダンスホール 90年代 (13)
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