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アーティスト特集
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Sugar Minott シュガー・マイノット |
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シュガー・マイノットの誠実さは彼が制作した楽曲すべてを通して輝き放ったが、早すぎる死はレゲエの世界に衝撃の波をもたらした。 Tweet |
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2010/7/20掲載 2020/5/1更新 (C)ダブストアサウンドインク 無断転載を禁ず |
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1956年5月25日~2010年7月10日 本名: Lincoln Barrington Minott 出身: ジャマイカ キングストン >> 全ての代表作を見る |
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Sugar Minott Dance Hall Showcase Volume 2 Wackies EU |
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¥2,380 |
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「12歳くらいのときに俺の住むキングストンのマックスフィールド・アヴェニュー近くで開催されたアマチュア・タレント・コンテストで歌い始めたんだ…」
しかし、シュガーは長くアマチュアに留まらす、デリック‘エリック・バブルス’ハワード(Derek ‘Eric Bubbles’ Howard)、ウィンストン‘トニー・タフ’モリス(Winston ‘Tony Tuff’ Morris)と一緒にアフリカン・ブラザーズ(African Brothers)のメンバーとして音楽キャリアを歩み始めた。このグループが多くのレコード作品を録音することはなかったがそれぞれの作品が見事で、ジミー・ラドウェイ(Jimmy Radway)のもとで制作したインスピレーション溢れる‘Lead Us Heavenly Father’、ルーピー・エドワーズ(Rupie Edwards)との美しき‘Mystery of Nature’別名‘Mysterious Nature’、ランディーズ(Randys)を運営するクライブ・チン(Clive Chin)との‘Hold Tight’、またデューキーズ(Dukie’s)からリリースされると大ヒットを飛ばしたデューク・セルウェル(Duke Thelwell)制作の喜ばしい‘Party Night’、さらには自主制作でデル・トット(Del Tot)からの‘Torturing’などがその一例に挙げられる。スタジオ・ワン(Studio One)で‘No Cup No Bruk’を録音した後、シュガーはグループを脱退しソロ・アーティストとしてスタジオ・ワンのドッド氏(CS Dodd)と活動を開始。すでに知られたスタジオ・ワン・リズムにマッチした歌をオーディションに持ち込んだ彼はコクソンが彼に興味を持ったことを感じたこと「彼は音楽を制作する必要がなかった」からだとを語っている。 コクソンはシュガーと1年契約を交わすが、彼はその後の6年間を作曲、歌い手、ハーモニー、ギター演奏として他のアーティストの録音を手伝った。 70年代の間、マイティ・トゥー(Mighty Two)として知られるジョー・ギブス(Joel Gibson)とエロール・トンプソン(Errol Thompson)、チャンネル・ワン(Channel One)のフーキム兄弟(Joseph Hookim) 、バニー‘ストライカー’リー(Bunny Striker Lee)、オーガスタス・パブロ(Augustus Pablo)といったジャマイカのトップ・プロデューサーたちは幾度となく60年代に発表されたトレジャー・アイル(Treasure Isle)やスタジオ・ワンのリズムをカバー、リメイクする中、シュガーとドッド氏は違ったアプローチを持っていた。こういったリズムをリメイク・再録するのではなくシュガーが真新しい曲々をコクソンが原盤テープを再びミックスしたリズムに乗せたのだった。 若くして才能を開花させたシンガー・ソングライター、シュガーが持ち合わせた傑作リズムにマッチする新たな歌を書く能力は的を射たものだった。「ひじかけ椅子に座るように彼はリズムに乗っていた」彼の曲はこういったヴィンテージ・リズムのためにわざわざ書かれたのかと思うほどの聞こえだった。最初の成功はリロイ&ロッキー(Leroy & Rocky)による'Love Me Girl'のヴァージョンを上手に使った‘Wrong Doers’でリンカーン・マイノット(Lincoln Minott)の名義で発表されるとスタジオ・ワンの拠点ブレントフォード・ロードから無数のシングルをリリース、1978年、彼のデビューLP「Live Loving」がロンドンのシェパーズ・ブッシュにあるペッキングス(Peckings)のスタジオ・ワン・ショップを通してリリースされた(イギリスでリリースされた数少ないスタジオ・ワン・アルバムの1つである)。「45回転盤のように売れた」ことで彼の名と評価は不動となり、すぐにスタジオ・ワンからシュガー・マイノットの7インチ盤がオールディーズを扱うレゲエ専門店だけでなく、新品のレコードよりも売上げを記録し溢れかえるようになった。1979年、テナーズ(Tennors)の“Pressure & Slide”をガンジャ・アンセムに一新させた‘Oh Mr DC’が大ヒット(この楽曲はサイエンティスト(Scientist)が手かけた最初のミックス曲の1つだとされる)。‘Vanity’はアルトン・エリス(Alton Ellis)の‘I’m Just A Guyもう1つの‘Give Me Jah Jah’はまたもアルトン・エリスの‘Breaking Up’を利用したものでヒットしたオリジナルのヴァージョンよりも知られるようになった。さらに6曲がアルバム「Breaking Up」のために集められシュガーの歌はこういったリズムのインストならびにダブ・ヴァージョンと融合し成功を収めたのだった。 シュガーのアルバム「Live Loving」が大きな要因となってスタジオ・ワンは待ちに待った復活を遂げ、ジョニー・オズボーン(Johnny Osbourne)のLP盤‘Truth And Rights’、フレディー・マクレガー(Freddie McGregor)の‘Bobby Babylon’と揃って、続く2年間はレゲエ業界において支持を得ることができるという模範を築いた。 自身が独立したかったという理由のためだけではなくゲットーの若い才能を育成するため、シュガーが「俺と同じ苦悩を経験する若者を手助けする」ためにユース・プロモーション(Youth Promotion)とブラック・ルーツ(Black Roots)が1979年に立ち上げられた。ランキン・ジョー(Ranking Joe)とのシングル‘Youth Promotion’がこの年にリリースされると、この曲はシュガーのユース・プロモーションという新たな組織の使命を明らかするものとして機能、ランキン・ジョーがディージェイする中シュガーはバックで「ゲットーの若者のために…」と震えて声にした。本人は大きな成功を手に入れたにも関わらず、常に自身のルーツであるゲットー、そしてバリー・ブラウン(Barry Brown)、リトル・ジョン(Little John)、ジュニア・リード(Junior Reid)、そしてアフリカン・ブラザーズで一緒に活動したトニー・タフ(Tony Tuff)といった仲間に対して忠実であり続けた。イギリスで初めてレーベルのサファラーズ・ハイツ(Sufferer’s Heights)からリリースされた12インチ盤‘Hard Time Pressure’はホープトン・ルイス(Hopeton Lewis)の‘Sounds & Pressure’のアップデート版に才能あるチャプテン・シンバッド(Captain Sinbad)のディージェイ・セクションが足されたもので大ヒット、シュガーはイギリスでもスターになった。 アイランド(Island)のマンゴ・レコーズ(Mango Records)がその年の終わりに素晴らしい自主制作LP「Black Roots」をリリース、1980年にはイギリスに渡航、長期間滞在しイギリスのレゲエ・シーンに計り知れない影響を与えた。イギリスで発展したラヴァーズ・ロックへの探求も行い、ジャマイカやブラック・ルーツの録音と変わらず素晴らしく‘Lovers Rock’やキャロル・トンプソン(Carroll Thompson)とのデュエット曲‘Make It With You’は大ヒット。シュガーが次から次へと生みだす楽曲は彼の驚くべき才能によってだけ放たれた。ホークアイ・レコーズのロイ・フォーブス・アレン(Roy Forbes Allen)の‘Good Thing Going (We’ve Got A Good Thing Going)’のカヴァーが1981年イギリスのナショナル・チャートで入りを果たしその年の春にRCAライセンス契約が結ばれると4位を記録。メジャーのレーベルがシュガーに契約を持ちかけるも彼はユース・プロモーションの仲間が含まれていない限り契約書にサインすることを拒否。言葉として不要かもしれないが自身の利益を犠牲にして他人に利益を与える彼のアプローチはメジャーのレコード会社が望んでいるものではなかった。 「シュガーはゲットーの若者からスーパースターに出世。しかし同じポジションにいる他の大勢とは違い、自分が得た地位よりも才能あるゲットーの若者を引き取り、音楽を教えることの方に力を入れた。本当のレゲエ音楽のルーツを教えることを選んだのだ」Reggae Quarterly Number 6(1985年)、記事‘Youth Promotion’ベス・レッサー(Beth Lesser)著より シュガーは自身と他のプロデューサーのためにレコードを作り続け、それはダンス・ホール期を明確するものになった。1983年にヌラ(Nura)からリリースされた「Slice Of The Cake」は独力でこのジャンルを創造したシングルで「一切れのケーキをくれたら、私がそれを焼く」とこのことを明確にしようと努めた。彼の提供する作品はいつも他のプロデューサーたちに必要とされ、それを物語るようにジョージ・パン(George Phang)の‘Buy Off The Bar’、チャンネル・ワンのフーキムの‘No Vacancy’と‘Too Much Backbiting’など数え切れないプロデューサーたちに良質な音楽を提供することを怠らなかった。彼の強大な影響力が示すように彼のカタログは膨大で全てを網羅している。デジタル・リズムが主流になってくると、彼はスライ・アンド・ロビー(Sly & Robbie)のために録音した‘Rub A Dub Sound’と‘Herbman Hustling’もう一度表舞台に立った。彼らの刺激的な作品は、あまり有名ではないアーティストたちが主導権を握り一時的に行き詰っていたダンス・ホール音楽の道を開いた。 彼はユース・プロモーション・サウンド・システム(Youth Promotion Sound System)を伝説的なディージェイ、ジャー・スティッチ(Jah Stitch 現 Major Stitch)と共に設立、彼がセレクトとオペレートを担当し、キングストンで一番の才能を持ったディージェイが誰であるか競わせるように、マイクを誰に最初に握らせるかを選んだ。そしてユース・プロモーションはすぐにトップ・サウンド・システムの一つに仲間入りし、彼らのセッションを納めたテープは鑑定家の間では非常に重要視されている。 ジャマイカの時代を通して偉大なる音楽家としての地位を強めた彼は創作のピーク時に天才だということを立証し、今はレゲエ界の後見人として自身のために素晴らしい音楽を作り、今後期待の若手シンガーやディージェイたちのプロモーション活動にも努めた。彼は歌い手、作曲家、音楽家、ディージェイ、編曲者、レコード・プロデューサー、そしてサウンド・システムの運営者としてジャマイカ音楽に与えた影響は計り知れず、彼の性格と音楽はたくさんの人々に影響を与えているも、彼は気取らずいつも礼儀正しく温和である。 7月10日、彼は体調不良を訴え、セント・アンドリューにある西インド諸島大学病院に運び込まれ、10時10分過ぎに亡くなった。死因は今も公開されていない。レゲエ業界は真の重要人物の一人を失い、偉大なる彼の存在は言葉に出来ないほどに偲ばれるだろう。 ダブストアのスタッフ一同、この哀しき折にシュガーの家族と友人に追悼の意を表す。 2010年7月17日 Text by Harry Hawks |
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Sugar Minott Rydim Power House 1984 Answer |
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¥720 |
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African Brothers Righteous Kingdom Black Roots UK 1973 |
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¥2,180 |
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African Brothers Torturing Black Roots UK 1973 |
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¥2,180 |
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シュガー・マイノットの誠実さは彼が制作した楽曲すべてを通して輝き放ったが、早すぎる死はレゲエの世界に衝撃の波をもたらした。Sugar Minott(シュガー・マイノット)のアーティスト特集。 >>
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