1985年、ジャマイカのダンスホールシーンに「スレンテン」という名のリディムが出現し、瞬く間に島中を熱狂の渦に巻き込んだ。その「スレンテン」の仕掛人の名はロイド・ジェームズ。言わずと知れたコンピュータライズド・デジタル・レゲエの創始者であり、80年代最も影響力のあるレーベルであるジャミーズ (Jammys)のプロデューサーとして知られる「キング・ジャミー(プリンス・ジャミー)」である。
悪名高きキングストンのウォーターハウス地区で育った彼は、幼い頃からサウンドシステムに関心を抱き、電子機器をいじるようになり、若くして自分のサウンドシステムを立ち上げた。彼のサウンドシステムに関する技術は高く、多くのウォーターハウス地区のサウンドを作り上げるほどの腕前だった。その才能が評価されプリンス・ジャミーと呼ばれるようになる。
70年初期になりカナダで音楽活動を続けたが、数年後、ジャマイカに帰国し、ウォーターハウスの自宅にスタジオを構えた。その頃、ダブマスターであるキング・タビーの元でエンジニアを務めていたフィリップ・スマートがニューヨークに移住することとなり、代わりにジャミーがキング・タビーの弟子としてタビーズ・スタジオのミキシング・ボードの前に座ることとなり、師匠であるタビーのスタイルを手本としたダブ・ミックスをするようになった。77年以降、キング・タビー、バニー・リー、オーガスタス・パブロ、ヤビー・ユーなど音楽的に多大なる影響を受けたプロデューサーの作品をはじめ、タビーズ・スタジオの大部分のダブミックスを手掛けた。
70年代後期から、ジャミーは自分のスタジオとサウンドシステムを設立しジャミーズ・プロダクションとしてリリースを開始する。78年のブラック・ウフル「Ntural Mystic」を皮切りに、80年代前期には、当時新人のアーティストであったハーフ・パインを起用し、ハイ・タイムズ・バンドによるリズムにのせてエネルギッシュなパフォーマンスを見せる[プーチー・ルー(Pouchie Lou)]や[ワン・イン・ア・ミリオン(One InAMillion)]などの会心のヒット作を生んだ。また、13歳という若さでデビューし、個性的な才能を発揮していたジュニア・リードのプロデュースにも着手。荒削りだった彼のボーカル・スキルもジャミーと制作を共にする頃にはより洗練され、彼がジャミーの元に残した最高傑作[ヒグラー・ムーブ(Higgler Move)]や[ブーン・シャック・ア・ラック(Boom Shack A Lack)]などが生まれた。その他にも、ジョニー・オズボーンの[ウォーター・パンピン(Water Pumping)]や[シュガー・マイノットギブ・ザ・ピープル(Give the People)]、デニス・ブラウン[ゼイ・ファイト・アイ(They Fight I)]などの80年代初期ダンスホールの代表作を多数残している。
そして記念すべき1985年2月23日、ワルサム・パーク・ロードで行われたプリンス・ジャミー対ブラック・スコーピオの歴史的サウンド・クラッシュでジャミーが投下したのがジャミーズ・レーベル最大のヒットとなるウェイン・スミスの[アンダー・ミー・スレン・テン(Under Me)Sleng Teng]である。未だかつて経験した事無いグルーブ感にジャマイカの人々が熱狂した。当時はバンド編成におけるトラック作りが主流であった中、「スレンテン」リディムはレゲエ初のデジタル・リズムであったからである。このリズムは、ウェイン・スミスとノエル・ベイリーが、ロカビリー界のスーパー・スター、エディー・コクランの代表曲「Something Else」のフレーズをカシオ・キーボードで弾いていた際に偶然発見されたと言われている。その後ジャミーズのスタジオに持ち込まれ、トニー・アッシャーによってペースが落とされたリズムは、完全なるダンスホール・トラックとしてアレンジされた。「スレンテン」はシーンに新しいダンスホールの形を示すとともに、その後発展することとなるコンピュター化隆盛の狼煙あげた。クラッシュでプレイされた後から、多くのプロデューサーがコンピューター・サウンドの斬新さと目新しさに目をつけ、今までのノン・デジタルトラックを放棄し、デジタル・トラック制作に移行した結果、「スレンテン」を模倣したコンピューターライズド・トラックが大量に出現。今ダンスホールシーンに「デジタル」の嵐が吹き荒れた。
80年代末までに正確には分らぬほどのシングルと150近くのアルバムがリリースされているという数字
が示すように85年の「スレンテン」発表以降キング・ジャミーはダンスホールの覇者として君臨した。エンジニアにボビー・デジタル(後のDigital Bオーナー), リズム・セクションにスティーリー&クリービーを起用し、数々のヒットを生み出していった。
ニッティ・グリッティの[ホグ・イナ・ミー・ミンティ(Hog Ina Me Minty)]、[ラン・ダウン・ザ・ワールド(Run Down the World)]やキング・コングの[リーガル・ウィ・リーガル(Legal We Legal)]、[トラブル・アゲイン(Trouble Again)] などは両者の独特なアウト・オブ・キー・スタイルで初期デジタル・リズムを上手く乗りこなしたヒットナンバーである。[アゴニー(Agony)]、[バンデレロ(Bandelero)]のピンチャーズ、[フォー・シーズン・ラバー(Four Seaon Lover)]、[ディス・マジック・モーメント(This Magic Moment)]で知られるリロイ・ギボンズなどもジャミーズで名声を上げたアーテイストといえるだろう。またパッド・アンソニー、アンソニー・マルボ、チャック・ターナーなどをはじめ、当時駆け出しのココ・ティー、サンチェズ、スリラー・Uなども手がけている。
また、ルーツ期に活躍したアーティストのデニス・ブラウンやグレゴリー・アイザックスなどのアーティストがデジタル・トラックとの相性が間違いないことも証明した。特にジョニー・オズボーンはデジタル化以前も大成功を収めていたが、ジャミーのデジタル・サウンドでも[ブディ・バイ(Buddy Bye)]、[ノー・アイス・クリーム・サウンド(No Ice Cream Sound)]などのヒット曲を残した。
レーベル運営と同時にジャミーが力を入れていたのが彼のサウンド「ジャミーズ・スーパー・パワー」である。デジタル時代の全盛期に彼のサウンドから当時を代表する人気ディージェイを輩出。
特に外せないのがアドミラル・ベイリーである。[ビッグ・ベリーマン(Big Belly Man)]、[プナーニー(Punnany)]などジャミーのサウンドを完璧に乗りこなす彼の遊び心溢れるパフォーマンスとインパクトのある見た目なども含め瞬く間にトップへと駆け上がっていた。その他にも[バビロン・ブープス「Babylon Boops」]のメジャー・ウォーリーやチャカ・デュマス、タイガー。強烈な個性で人気を博したルーテナント・ステイッチーなど数多くのディージェイが誕生している。
「スレンテン」がもたらした「デジタル革命」はバンドセッションを用いてリズムを制作するときよりも経費がかからないことから新しいプロデューサが劇的に増えていったが、テクニクスやレッドマン、もともとの師匠であるキング・タビーズなど当時のライバル・レーベルを追従させない勢いで「Duck」、「Punaany」、「Love Punaany Bad」などヒットリディムを量産ヒットを重ねていった。その勢いはジャマイカに留まらず、ニューヨーク、ロンドンでも同時発売され、世界中にジャミーズのヒット曲は広がり、ダンスホール界のトップ・レーベルとしてその地位を不動のものとした。
かつてジャミーがタビーの元から離れたように、ジャミーズのデジタル・ダンスホール黄金期を支えたボビー・ディジタルとスティーリー・アンド・クリーヴィーは自らのレーベルを立ち上げるため1988年にジャミーの元から去っていった。ジャミーも認めるほど、レコード制作において突出した才能を持っていた
ボビー・デジタルと数多くのリズムトラックを制作し、提供していたトップ・リズム・セクション部隊として活躍していたスティーリー・アンド・クリーヴィーは、各々のレーベルでヒット曲を生み出し、キング・ジャミーを脅かす存在ではあったが、80年代のジャミーの覇権を奪うまでにはいたらなっかた。
90年代からは、80年代ほどの勢いは影を潜めたが、長男ロイド・ジェームスJrこと「ジョン・ジョン」は、幼少期から偉大な父のスタジオに出入りし必然的に音楽ビジネスに触れ、18歳という若さで「ファーザー&サン」レーベルを設立、翌年92年には自身の名を関した「ジョンジョン」レーベルを立ち上げ、「スレンテン」、「ラブ・プナニー・バッド」などのジャミーズ産リズムや、「シャンク・アイ・シェック」などのファンデーション・リズムに独自のテイストを加えたサウンドで90年代にヒットチューンを生み出した。2000年代入っても「Awful」レーベルも新たに立ち上げるなどラフでタフなストリートのヴァイブスを感じさせる最先端のサウンドをクリエイトしている。
ベイビー・G、ジャム2、クリストファー’CJ’ジェームスの3人も2000年に入りそれぞれのレーベルを運営し、ダンスホールシーン沸かせてきたリディムを制作し、シーンの中核を担うプロデューサーとして名を馳せている。キング・ジャミーの息子ではないが、ワード21のスクも「メンタリー・ディスターブ」、「キング・ジャミー」レーベルのトラック制作を任され「Badda Badda」などヒットを生み出した。このように覇王キング・ジャミーの意思は現在に至るまでしっかりと受け継がれているのである。
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