1985年ダンスホール・シーンの新しい扉を開いた「スレンテン(Sleng Teng)」発表後、キング・ジャミーは物凄い勢いでシーンのトップの座にたどり着いた。「スレンテン(Sleng Teng)」がもたらしたリズム・トラックのデジタル化は、バンド編成によるトラック制作よりもコストが軽減されるため、新たに制作に乗り出すプロデューサーは増えたが、生み出される物の全てが良いものばかりではなく、「スレンテン(Sleng Teng)」を模倣したオリジナリティーのないものが多かった。
そんな中、ダンスホール界のトップに君臨していたキング・ジャミーの独壇場に歯止めをかけるべく2人のベテラン・プロデューサーが最初に立ちはだかる事となる。キング・タビー(King Tubby)、とウィンストン・ライリー(Winston Riley)である。「スレンテン(Sleng Teng)」の対抗馬として彼らが打ち出した「テンポ(Tempo)」と「Stagalag (スタラグ)」は、キング・ジャミーの覇権を揺るがす最初の脅威となった。
そして、「スレンテン(Sleng Teng)」リリースの2年後、サウンド・システム・オペレーターから身を立てた1人の新進気鋭のプロデューサーがジャミーの覇権を虎視眈々と奪おうとしていた。その男の名は、「ヒュー・ "レッドマン"・ジェームズ (Hugh‘Redman’James)」。80年代後期から90年代初期にかけて人気を博した「レッド・マン・インターナショナル(Redman International)」のオーナーである。
当然のごとく彼もまた、当時どのセッションにも必ずといってよい程登場した天才コンビ、スティーリー&クリーヴィー(Steely & Clevie)を起用していたが、彼が創り出すリズムはありきたりな模倣デジタル・トラックとは違っていた。ジャミーのスタイルをベースとしてはいるが、そこにルーツ・ミュージックの持つ土臭さ、いなたさといったエッセンスを絶妙に落とし込むことで、自身のアイデンティティーをしっかりと表現した作品となっていた。
彼が手がけた作品の中でも、「カール・ミークス(Carl Meeks)」の[ウェイ・デム・ファ(Wey Dem Fa)]、[デンジャー(Danger)]、「コンロイ・スミス(Conroy Smith)」の[デンジャラス(Dangerous)]、「アドミラル・チベット(Admiral Tibet)」の[ニュー・タクティクス(New Tactics)]、トニー・タフ(Tony Tuff)[ケアレス・ピープル(Careless People)や「デイブ・ベイリー(Dave Bailey)」の[コンクリート・ジャングル(Concreate Jungle)]、[ランニングス(Runnings)]などは彼のサウンドワークの特徴を強く示した存在感のある仕上がりである。
また、レッド・マン・レーベルを語る上で外す事の出来ないのがデルロイ・ウィルソン(Delroy Wilson)]がスタジオ・ワン(Studio One)に残した名曲[ランラン(Run Run)]をリメイクした「クレメント・アイリー(Clement Irie)の[コロコ(Koloko)]」である。このトラックでは、ジョニーP(Johnny P)、ラッパ・ロバート・アンド・ティッパ・リー(Rappa Robert & Tippa Lee), ダディ・リリー(Daddy Lilly)といったアーティストの強力なナンバーがリリースされている。その他にもレッド・ドラゴン(Red Dragon)、フランキー・ポール(Frankie Paul)、コートニー・メロディー(Courtney Melody)をはじめ、数多くのアーティストをプロデュースし、良質な作品をシーンに送り出している。
全ての作品に通して言えることだが、システム出身の彼からすれば当然の完全現場仕様であり、また制作するトラックのダブ・バージョンも非常に素晴らしく彼のプロデューサーとしての評価の高さを物語っている。
90年代に入りリリースも減り、現在はプロデュース業から身を引いてはいるが、彼が残した作品の数々は、昨今、ダンスホール・ファンから人気が高まっており、再評価を受けている。
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